地方薬局の2代目がUターンした理由
みなさん、こんにちは。
けやき薬局の馬場(き)です。
3月は寄稿シリーズということで、私の個人的?な「なんで会津若松に帰ってきたのか」という話を寄稿します。
ひどく打算的でがっかりするような話かも知れないですけど、お読みいただける方はお付き合いください。
最初は帰る気がなかった?
直接的な物言いが「OSO-18」と社内で評されておりますが、いまさら取り繕ってもしょうがないので、普段通りのテンションでいきます。
そもそも当初は、期待されるような「会津若松へ戻ろう!」という熱い気持ちはこれっぽっちもありませんでした。
そもそも郷土愛が、うすい
しょっぱな「えぇ…」という話ですが、私は「郷土愛」がうすいです。コーヒー牛乳よりうすく、ミルクコーヒー並みの濃さしかないとご理解ください。実は正確な会津弁もまともに話せませんし、白虎隊の踊りも踊れませんし、会津古来の価値観なども共有していないと思います。
なぜか?というと…
と、28歳でUターンするまでの間に会津若松にいた期間はわずか8年(小学校高学年~高校)のみです。これで郷土愛を持てっていう方が無理じゃないですか?
意外と東京の暮らしが気に入ってた
39歳になった現在では、首都圏に行くとひとが多すぎて胸焼けがするようになってしまいましたけど、20代のころは居合にドはまりしていたせいもあり、職場→居合の稽古→ごはんを食べてそのへんをプラプラという生活をいたく気に入っていました。なので、居合の稽古環境を捨ててまで地元に帰るという考えは湧きませんでしたね。
上記のカケハシ山﨑さんの寄稿の通り、意外と不自由なく楽しくやっていたんですよ…
両親がハードワーカーなのも知っていた
洋典さん(父)と奈緒子さん(母)が開業した当初は薬局で何かすることも多く(子供だけ家に置いておけないので)、伊南ホームのお届けについて行ったり、社員旅行にも一緒に行ったりしていました。
中村さんや西脇さん(あと退職されていますけど本田さん)を親戚のお兄さんと思うくらいには、関わり合いがあったように思います。一緒に連れていてもらった社員旅行で「リンダ、リンダー」と一緒に飛び跳ねたのは良い思い出です。
そんな私の高校生の頃の「薬剤師」のイメージは、
まぁそう思いつつも、大学受験で進路を決めるときに数学・化学以外がてんでダメ太郎な現実を嫌というほど見せつけられましたので「どうすっかな〜」と思いつつ、両親の働きっぷりを見ていて「薬剤師は比較的食いっぱぐれないだろう」というひどく打算的な考えで薬学部を進学先に選びました(志の低い学生でしたね)。
大学在学中や就職してからも、「よく働くなぁ…」と帰省する度に感じるものの、親は親、自分は自分と考えていました。
こう改めて書いてみると、すごくドライなひとですよね…
帰ろうか?と考えたきっかけ
そんな浮浪者のような考えの私がなぜ「地元に帰って親父殿の会社に入社しよう」と思ったのかを振り返ります。
「お前はいつ帰るんだ?」とよく聞かれた
はからずも?同じ職業についたからか「実家が薬局なら、そっちにはいつ帰るんだ?」とよく聞かれました。いや、本当に。
色々なひとに繰り返し聞かれるというのは、刷り込みという意味でとても効果があったのかも知れません。笑
(知らずに就職したのですけど)前職の水野薬局(いまは日本調剤さん傘下)は、家業を継ぐために修行しに来る場所という歴史があったことも影響していたのかも?BOSS夫妻からはそんなことを言われたことはなかったですけどね。
そういえば、webアーカイブで見るしかなくなっちゃっいましたけど、門下生の多かった水野睦郎先生の資料館とかを読むと現在までの薬事政策の源流みたいな物が感じられて面白いですよ(私が就職する前に亡くなっているので、直接お会いしたことはないんですよね)。
3.11の震災によるボランティア
気づけば今日は3/11ですね(黙祷)。
「地元に帰ろうかな?」と思ったのも東日本大震災時に会津若松市へボランティアに来たことが影響していると私は考えています。
震災後の3月後半にちょうど有給休暇を取得する予定が入っていて、震災で予定がなにもなくなってしまったので、地元へ薬剤師のボランティアに行きました。
都薬経由ではなく、親父殿を通して会津薬剤師会へ直接連絡してもらったので、会津薬剤師会の会長指揮下で河東体育館を拠点に日赤の医療チームに同伴してサポートするというボランティアを行いました(当時は日赤の医療チームに薬剤師はいなかったんですよ)。
(会喜では、ふれあい体育館のサポートを一手に引き受けていたらしいので、興味のある人は13年以上在籍している飯塚さんや関さん、健一さんなどに聞いてみてね)
そんななかで感じたことは、
という、なかなか都会の大病院前の薬局では体験できないことでした。また、身近に会喜のスタッフの働きぶりを見て、みんな熱意を持ってまじめにやっているんだなぁと感じたことも大きかったです。
会喜には同年代が多かった
関さん、飯塚さん、健一さん、白井さん、岡本さん、亮太さんなど、2010年代には現在の中核メンバーが20-30代の若手スタッフとして多く在籍いたことも「たのしそうかな?」と思った要因の一つでした(帰ってきて実際にたのしかったし)。
これがもし、自分が最年少で全員10歳以上も年上ばかりだったら、Uターンしようと思うことはなかったでしょうね。上記の何人かからは「帰ってきなよ!」と直接言ってくれた(人不足はあったにせよ)というのは、大きかったように思います。
ボランティアの翌年以降などにも、一緒にごはんを食べに行ったり、スノボに行ったりしたという体験も、Uターンしてからの人間関係を先体験できた様に思いますので、Uターンを考えるモチベーションに繋がりました。
実際にUターンしたタイミング
これは明確に親父殿(洋典さん・相談役)から
と要請されたからです。
この計画自体は、確保できた場所が悪かったのと都市開発法の規制で数か月で断念したんですけどね…
その話が出る前から決算書を見せてくれたり、経営の話をしたりといったことが増えていたので、ビジネスとしての薬局のおもしろさみたいなものに触れさせようという布石は打たれていたんだと思います(さすがにやり手経営者ですよね)。
まとめ:ご縁を大切に出来ることをやる
Uターンした理由を振り返ってみて「ご縁」という考え方が、私には一番しっくりきました。ビジネスでもたまに使う「人との繋がり」を指すこの言葉は、もともとは仏教用語だそうですね。
つながりや働きかけなどの複合的な補助要因を「縁」と呼ぶのであれば、私のUターンしてきたという事柄についても、主要因は親父殿からの要請でしたけれど、そこの意思決定に至るまでにいろいろな要因が補助としてあったのかなぁと感じます。
1講演で○十万円稼ぐような講師がそんなことを言っていたので、思えば色々な人との出会いや関わりが今を形作っているのかも知れないですね。
意外と古くさいと思えるような考え方の中にも先人の知恵や経験が詰まっていたりするみたいですので、ぜひ皆さんも自分の「縁」について考えてみてくださいね。
will-can-must
最後に何か決めるときは自分の希望も大切なんですけども、その結果「自分ができることは何か?」「価値を出せる点は何か?」と考えることも大切かなと思いました。私はUターンで帰る前に「会喜で自分が出来そうなことは何か?」という点は考えました。
ちなみに、そこそこ行動力があり、だいたい何でも70点ぐらいまではできる私ですが、基本的にリーダーシップを発揮したり、物事を決めたり、未来を夢見て考えることは本来は苦手です。(今はもうおじさんなので、役割上必要なら何でもやりますけどね)
参考までに)ストレングスファインダー
社内のキャリアアップの福利厚生として、適性試験の一環でコーチング込みで受けることができます。
また、悩める若い人はSmart相談室での相談も活用してね!
やりたいこと(will)
やれること(can)
やるべきこと(must)
なんかを分けて考えて考えていくということは、キャリアカウンセリングなどでもよく使われる手法のようです。
自分自身の苦手なことを考えると、自分自身で起業をするという選択肢は考えずらく、創業者の熱い想いを理解して引き継いでいく「2代目経営者」という生き方も悪くないなと感じています。
以上、せっかく機会を頂いたので12-3年前のことをふりかえってみました。まぁ、なんの役に立つ話でもないですけど、社長はこんな奴なんだという理解にご活用いただければ幸いです。