セキヨウスケのトリセツ
彼の名は、関陽介。2000年に新潟薬科大学に入学、同じ研究室で切磋琢磨し、卒業後も同じ会社に入社したわけだが、10代から苦楽をともにしている親友の一人である。
今回のアンサートリセツでは、大学時代のエピソードを交えながら皆が思っている彼とは少し違う面について紹介していこう。きっと読み終える頃には、彼のイメージが変わっているに違いない。
皆が知っている通り、彼は高身長且つスレンダーな体系で爽やかな短髪が似合うナイスガイであるが、それは社会人になってからの話である。たしかに学生時代からスレンダーなナイスガイであったことはかわりないが、髪の色は黒かったことはなく、また短髪であった記憶もない。常にキレイに脱色され、時折パーマ姿でもあった。
彼は昔から年下の女性からちやほやされる傾向にあり、著者は羨ましく思っていた。
著者のあだ名をイジっていたようだが、彼に関しては昔から「セキ、セキさん、セキヨー」など今とさほどかわりない呼ばれ方をしていた。あまり話題が広がらないので、このあたりにしておこう。
その代わりといってはなんだが、彼には大学時代から残してきた数々の名言がある。そのひとつが「夜のデートは、俺に任せろ!」である。
彼もまた新潟のデートスポットに精通しているひとりであるが、特に22時以降のデートスポットやプランを得意としていた点が、著者とは異なる点である。
これ以上、この場でこの話をするのは相応しくないので控えることとするが、大好きなアルコールが入ると面白い話が聞けるかもしれないので、是非、興味がある方は彼を誘ってみてはいかがだろうか。
彼と奥様の出会いについても触れておかなければならない。前号で記載があった通り、たしかにふたりを結び付けたのは著者である。両者と以前から友人であった著者に「誰かいい人はいないか?」と双方から相談を持ちかけられ、飲み会(いわゆる合コン)をセッティングしたところ大成功となった。(そして、著者は結婚式の友人代表スピーチを引き受けることになる)
ただ少し寂しかったのは、実際に付き合う事になったという報告が無く、著者から確認したところ「あれ、言ってなかったっけ?もう付き合ってるよ」と軽く流されたことであろうか。
また、著者と彼は車が好きという共通点をもつ。今でこそ、共に家族の為にミニバンを運転しているが、学生時代の彼はワゴンR(マニュアル)に大きなウーファーを積み、車内はいつも「浜崎あゆみ ユーロビートVer.」が爆音で流れていた。
また、車内のルームミラーもこれでもかというくらい長く(助手席から運転席の端から端まで)搭乗者はどこをみても顔が見えるような状態で、ちょっとしたヤンキー仕様であったことを思い出す。
その後、彼は「頭文字D」でお馴染み、走り屋に絶大な人気を誇る「インプレッサ」に乗り換えた。キレイなブルーとマフラーの爆音が印象的であった。
彼の人生の転機となったのは、やはり当グループへの就職だろう。彼もまた大学院時代の教授と折り合いが付かず退学することとなったが、著者は地元新潟に残り就職するものだと思っていた。
著者が半年に及ぶ病院実習に行っている間にまさかの退学。そして当社への入社を決めていた。なんとも寂しい気持ちになったことを今でも覚えている。
ちなみに前号に、当時の社長から「ルーテシア」の差し入れを受け取ったという記載があったが、著者はその場にはおらず口説きを受けた事実もない。ただ、彷徨っているところを助けていただいた事実にかわりはなく、本当に感謝している。
真面目な話の前に、もう少し暴露を続けてみよう。
前号の記載の通り、たしかに彼はさぼりの常習犯で、真面目な生徒ではなかった。著者は見かけによらず真面目に授業に出ていたので、彼らの代筆(かわりに出席表に名前を記載)を頼まれていた。パシリではない。
ただし、著者はビビリであったので代弁(代わりに返事をすること)に関しては拒否していた。また、定期試験の際も手に入れた過去問もよく融通し合っていたことが懐かしく感じる。パシリではない。
国家試験の勉強はかなり大変ではあったが、彼や研究室の仲間と「負けるか」という思いで切磋琢磨し、共に合格を勝ち取ることができた。ひとりで勉強していたらきっと投げ出していたかもしれない。
今では極めて真面目な彼であるが、「小児薬物療法認定薬剤師」の資格を取得・更新し小児科の前で勤務を続けており、門前のDr.からの信頼も厚く、患者さまからも支持されている。
また、リモコンも元の場所に戻さないと気がすまないくらい几帳面な性格なので、一つひとつの仕事はとても丁寧であるし、教えを乞えば1~10まで説明をしてくれる。著者も度々助けられてきた「とても優しく面倒見のよい男」である。
彼の地元愛が深い部分にも触れておきたい。彼は地元新潟をこよなく愛する人間であり、きっと今後も変わることはないだろう。
元々、「日本三大花火」で有名な「長岡市」周辺に生まれ、長岡人はこの花火を誇りに思っている。また、内陸に位置するため豪雪地帯の一部であり、幼少期には雪のため2階から出入りしていたことがあると聞いている。
長岡は「ガーガー弁」で有名であり、彼も「○○するがよー、そいがー」という話し方をしていたので、千葉出身の著者としてはなかなか印象的であった。そんな彼は「長岡弁」「新潟弁」「会津弁」「標準語」を使いこなすバイリンガルであるといえよう。
ちなみにクラスメイト7人ほどで、彼の地元の合コンに乗り込んだこともあった。
ペアトリセツという初めての取り組みを行ってきたがいかがだったろうか?彼への思いが溢れ3,000字近い文書量になってしまった。また、可能な範囲で暴露話を盛り込んでみたわけであるが、お互い気心知れた仲であるので記載できたことも多い。
今回のトリセツを読んで少しでもクスっと笑える部分、新たな一面に触れていただけたのであれば幸いである。また、詳細について聞いてみたいというちょっと変わった方がいれば別の機会を設けるので、是非、著者まで連絡を願いたい。
最後に。この回顧録は関陽介の一部を紹介するものであり、彼の生き方や思い出、そしてこれからの人生に対する期待を共有するために書いた。
彼もまたイジられるのが好きなので、これを機に距離が縮まりよりよい関係性を築ける機会が増えれば幸いである。では、このあたりで終わりにするとしよう。