【二代目が聴く!】あいき創業話 vol.3 ~拡大編~
みなさん、こんにちは。
けやき薬局の馬場(き)です。
私(二代目)が洋典さん(創業者)に聴いた会社のエピソードも3回目になりました。今回は店舗数が3から5に増えて現状と同規模になるまでのお話です。
2年に1店舗というペースで店舗展開していく過程をふり返ってみましょう。
前回までのお話は以下からお読みください。
2003~2008年 積極採用・若手急増
このころって人がすごく増えた?
店舗数が増えて、人が必要となって積極的に採用していたんだよ。事務も薬剤師も若い子の採用を積極的に行って人が増えた時期だね。
3店舗できて経営状態も悪くなかったから人を採用できたんだよね。休みを少し増やそうと思ったのもあったかな。
新卒でそんなに採用できたの?
説明会に参加したり、母校(新潟薬科大学)へ訪問したりが大きかったかな。新潟薬科大学で卒論教室だった薬化学教室の片山肇先生とは、卒業後もとても親しくさせてもらっていて、度々いろいろな相談もしていたからそのご縁で入社してくれた人もいるね。健一と関と飯塚だよ。そこからその後輩達が入社してくれたんだ。野球部だったり研究室の後輩だった岩崎夫妻に遠藤君、岡本とかだね。
事務の方は、ハローワークで募集をかけたり、福島県や会津若松市で行っていた説明会などに参加して、声をかけて回ったかな。亮太は、偶然説明会で見つけて、小学校から知っていたから声をかけたんだ。
若手が増えてこまったことはあった?
2000年代は、事務を4-5人採用しても、5-6月に妊娠して辞めてしまうような状況だったんだ。18-20歳くらいの若者へ自分の話す日本語が通じていない印象で、話していることが理解してもらえているんだろうかと不安を感じていたよ。自分が今まで、製薬会社や小売業などのビジネスの世界で常識だと思っていたことが通じないような状態だね。
教育が足りないんだろうかと悩んで、たまたま「7つの習慣」を読んでいたので、全員に読ませてみることからスタートしたんだ。妊娠して辞める人ばかりだったのもあって、下の話をせざるをえなかったんだよ。
2004年 クレド策定
クレドカードの初版が出来たのは2004年ですよね?
そうだね。
ザ・リッツ・カールトンのクレドを参考にして、2004年に入社した新人たちと一緒に作ったんだ。今いる社員だと、健一と里江かな。
経営者だけで作ることもできたんだけど、作っても守って貰わないと意味がないんだよね。「自分たちで作ったものなら守るだろう」と思って、クレドを作る時に社員も巻き込んだんだよ。
クレドカードを作ろうと思った背景は?
店舗を増やして、人員が増えていく過程で「教育」の重要性に気がついたんだ。先ほども言ったけど、言葉が通じずみんな自由だったから、なんとか教育しなくてはいけないと考えたんだ。
口で言っても忘れるし、カードにして携帯して見直すことが出来るものが良いと思って、カードタイプのクレドカードを活用しようと思ったんだよ。
当初苦労したことはある?
なかなか口で言っても伝わらないから、「クレド実践報告書」を書かせるようにしたり、クレドチャージという組織を作ってみんなと話したり結構苦労したかな。朝礼で読み合わせをしたりもしたね。
クレドカードができたから、社内の共通言語が出来て、多少意思疎通ができるようになったように思うよ。
2004年 いぶき薬局開局
いぶき薬局はどんな経緯で建てたの?
前に話した通り、5年で借りて返済の目処が立つ2-3年で薬局を建てていこうと考えたんだ。飯塚先生は南会津のご出身だし、芳賀庄之助さんと飯塚先生のお父さんがポン友だったのも大きいかな。
薬局を考えた時には、飯塚先生はご開業されていて中央病院の近くの薬局で処方箋を調剤するような流れになっていたんだ。
こくぶ薬局からも話があったみたいなんだけど、南会津繋がりという点とか奥様に気に入ってもらえて選んでもらえたのかな。
いぶき薬局を開局するまでの苦労は?
あー、いぶき薬局のある場所はそもそも都市計画法の市街化調整区域で薬局などの出店が制限されている場所だったんだ。農地転用もしなくてはいけなくって、なかなか難航したんだよね。
薬局に勤めていた姪っ子がたまたまあの辺に住んでいたから、住んでいる人が床面積50㎡以内で行うなら許可が下りる可能性があるということで、色々取り組んだんだ。結果的には、うまく許可が下りて、姪っ子が主体で行うということで薬局を建てることが出来たんだよ。
個人名義だったから銀行から融資を受けるのが難しく、株式会社薬樹で社債を発行したりして支援をしたんだ。
2006年 くすのき薬局開局
移転前のくすのき薬局は裏に病院があったよね?
そうだね。〇〇〇会の病院が透析をやっていて、別のDrが診療を行っていたんだ。いろいろな事情で別の先生を探さなくてはいけなくなって、当時竹田綜合病院に勤めていた玉木先生に白羽の矢が立ったんだ。
その後、またいろいろな事情があって、玉木先生が独立する形で西若松駅の方に病院を移転して、薬局も一緒に移転したんだよ。
薬局の名前の由来は?
「木を植えて、地域の人が安らげる森を作りたい」と思って木の名前にしたいと思ったんだ。くすのきは当時の店長が候補の中から選んだんだったかな。
他の薬局も考えてつけたんだよ。
けやき
👉 けやきの木が好きだったし、福島県の木だから良いかなと思ったんだ。
ひのき
👉 真っ直ぐ伸びるし、樹齢が何百年になるものもあるしで決めたんだ。薬局が出来た後の1998年に近くの牛が墓が「桧町」という町名に変わったから、ちょうど良かったね。
みずき
👉 「火の木」で燃えてしまうと困るから「水木」にしたんだ。こちらも偶然だけど、近くの道路の街路樹に「ハナミズキ」が沢山植わったんだよね。
いぶき
👉 小児科前だったから子供たちの命の象徴として「息吹」としたんだよ。
くすのき
👉 臼は楠からつくるから、どっしり構えて欲しいと思って「くすのき」にしたんだ。樟脳といって昔は薬の材料にもなっていたしね。
2006年 10周年
10周年のときは何かしたの?
毎年行っていた社員旅行で10周年のお祝いをしたよ。あなたが大学生の時に呼んだでしょ? 10年勤続の表彰もこの時から始めたんだ。
10年勤続100万円という制度はどうしてそうしたの?
当時から余裕資金を作って株を買ったりする事を勧めてはいたんだけど、貯金もしていないというスタッフが多かったから、10年経ってなんやかんや忙しい時期にまとまったお金が入ったら良いんじゃないかなと思ったんだ。10年勤続の感謝の気持ちを込めて賞与にするということを考えたんだよ。
給与からの天引きなどはなく、会社の浮いたお金を保険で準備金として積み立てる方法にしたから、途中で辞めちゃうと支給はしないんだけどね。
10周年の思い出は?
会社の人数が増えたから、教育しないといけないなと感じていたんだ。お酒の飲み方から、礼儀作法まで、一人前にしていきたいと思ったよ。言葉遣いとかも恥ずかしくないようにしていこうと一杯考えたんだよ。
あと、話をしたり、自分の考えをまとめてディスカッションをしたり、本を読んだりも苦手な子が多かったから、朝礼で輪読をやったり、考えて話す機会を授けたり色々やったかな。
いかがでしたでしょうか?
イケイケ社長だった頃の相談役のいそがしい日々が伺えましたね。10年で5店舗を出店して、今の規模まで広げたということはなかなか出来ないことなんじゃないのかなと思います。
また、人が増えていく過程でいかに教育をして、強い組織にしていくか?に苦労していたかも垣間見える気がします。
次回は、そんな出店ペースが止まってしまった2006年〜2012年の奮闘について、まとめたいと思います!