イイヅカタカユキのトリセツ
彼の名は、飯塚貴之。2000年に新潟薬科大学に入学し、卒業後も同じ会社に入社したわけだが、まさに23年間苦楽を共にした親友の一人である。今回の社内報では大学時代のエピソードを織り交ぜながら、彼について紹介していきたいと思う。
まずは、あだ名から紹介しよう。「飯ちゃん」がオーソドックスな呼び方だが、当時は「ライオン丸」や「サムエル」という愛称で友人たちから親しまれていた。
そのあだ名の由来は、当時人気のあった「Something ELse」という3人組のアコースティックバンドグループから来ている。
「ラストチャンス」という曲で、今風に言うと「バズった」楽曲であるが、そのメンバーの一人が飯塚にそっくりだったのである。当時の飯塚は、こじゃれたパーマと黒縁メガネというフォルムをまとっていたが、まさにそっくりであったと昨日のことのように思い出す。
トレンドを掴むのは今も昔も女性の方が早いと感じるのは筆者だけだろうか。女性の同級生たちから、もっぱら「サムエル」ともてはやされていたが、彼もまんざらではなかった…かもしれない。
彼の人生の選択において興味深いものの1つが、当社への就職を決めたことであると考える。筆者はてっきり地元の千葉に帰ると思っていたが、教授と折が合わなかったことが原因で1年で大学院を中退し、会津の地を踏んだ。
入社した理由はいくつかあると考えるが、当時の社長(現・相談役)からの熱意ある口説きを受けたことと、同じ研究室の友人の2名(私ともう一人)が先に入社していたことが関係しているかもしれない。
今思い返すと、社長の口説きはとても情熱的であった。新潟市内で屈指の人気をほこった洋菓子店「ルーテシア」のケーキをたくさん買ってきて(20個はあった)、「うちの会社に入れば、毎日このケーキを食えるぞ」と、握手をしながら名刺を渡されたことは今でも鮮明に覚えている。
ここで大学時代のエピソードをいくつか紹介しよう。まずはデートで必ず行くであろう夜景スポットのことである。我々は、そこを「イイヅカスポット」と呼んだ。
新潟空港を一望できる夜景は、意中の人の心をつかむにはうってつけの場所だ。滑走路のライトの輝きや飛行機の離着陸をロマンチックに眺めることができる。「ここにデートに行き、告白すると必ず付き合える」と、都市伝説的に噂は広まった。
筆者も利用したことがあるこのイイヅカスポットだが、当時、一緒に行った相手はもちろん妻である。
少し話がそれるが、彼は近くにあった新潟大学に強いコネクションがあり、女性の知り合いも多かった。いわゆる「イイヅカコネクション」である。
一時期、「知り合いが多いから、飯塚に紹介してもらえ」と友人たちで噂していたことを思い出す。また、合コンをセッティングし筆者に妻を紹介してくれたのも飯塚であることも伝えておこう。ことの詳細については、次回の社内報で彼が書いてくれる予定なので、期待してほしい。
まじめなエピソードも1つ紹介しよう。それは、国家試験勉強のことである。国家試験の勉強はほぼ研究室で行っていたが、筆者はサボり気味であった。ただし飯塚は違った。まじめな彼は朝8時前から研究室に来て勉強をはじめ、夜は24時近くまで勉強を行っていた。
著者は飯塚よりも大学に来るのは遅かったし帰宅も早かったが、飯塚の国家試験勉強に打ち込む後ろ姿を見て触発され、勉強に励んだことは覚えている。国家試験に合格できたのは彼の姿勢に影響を受けたことは間違いないだろう。
また、文脈としてはまったく関係ないが、彼の出生の地である千葉県の都市伝説を紹介しておきたい。千葉の各家庭には蛇口が赤・青・黒の3つあるのをご存知だろうか?
千葉県の特産品の一つに大豆があるが、それを原料に醤油が作られる。醤油を生産するキッコーマンは飯塚の地元である「野田市」に本社を置く一流企業であるが、そこから各家庭に醤油管が繋がっており、黒の蛇口からは醤油が出るという伝説である。
著者は飯塚の実家を直接訪ねたことはないが、心霊現象や都市伝説を好む著者にはとても興味深い事例だと感じた。
この回顧録は、飯塚貴之の一部を紹介するものであり、彼の生き方や思い出、そしてこれからの人生に対する期待を共有するために書いた。
今では、グループの在庫統括責任者としての役割も担い、彼の専門性と交渉力は、会社の利益を向上させるための大きな要因になっている。彼の献身的な努力のおかげで、多くの人々が彼の存在価値を認識している。
最後に。彼はとても寂しがり屋な性格なので、尊重しつつ当記事をネタにたくさんいじり、彼との距離を縮めてほしいと著者は願う。